ハリー・ポッターの経済学
成功してきた魔法世界は基本的な経済原理に基づいていた。そしてそれがJ.K.ローリング『ハリー・ポッター』の不十分なところだ。
魔法が出てくる本はなぜこんなに楽しいのか? その魅力はほとんど同語反復的だ。魔法は普通ならやれないことやってしまう。それを想像できるから抵抗しがたいのだ。たしかに恋愛小説は、あなたの内側にいる傷ついた子供の部分に、情熱的で感性豊かな男が寄り添おうとして、食事後に皿洗いしてくれるのを思い描かせてくれる。しかし、魔法の本だけが思いのままにそんな男たちを消したり再び現せたりできるのだ。
とはいえ、実はこれは作者にとって一つの問題である。もしも魔法が強力すぎたら登場人物は全能の神となり、話の筋が成立しなくなる。魔法はルールや限界を有して、作者にストーリーを語れるだけの余地をあたえなければならない。経済用語でいえば、希少性がなくてはならない。魔法の力は有限の資源でなければならないのだ。
J.K.ローリングは、控えめにいって、一貫した筋立てやリアリティある登場人物で有名になったわけではない。シリーズ後半では登場人物が無意味に情報を隠しあうのだ。互いに共有していればその巻が最初の十ページあたりで終わっているだろうに。しかし、それらとは別にこのシリーズには問題があるので、私は第7巻を楽しみに待つなんてことはできそうにない。私は経済リポーター。そしてシリーズはひどい経済学に満ち満ちているのだ。
私が思うに、物語に魔法を出すには二つの道がある。魔法を使えるが対価が要る。もしくは、魔法は謎めいた力であってほとんど不明にされている、のどちらかだ。だから、オーソン・スコット・カードの『Hart's Hope』(*1)で女たちは魔法を使うときに自分や他人の血を対価として払わなければならなかった。
(*1『Hart's Hope』:1984年刊で未邦訳)
こうした対価は話を前に進ませるのに必要な希少性を生じさせる。『ナルニア物語』や『指輪物語』といったシリーズでは、魔法の使用時に明白なコストは無い。しかし、魔法のコストを理解する必要が無いのは、主要な登場人物がが魔法を使えないからだ。ストーリーに“機械仕掛けの神”を登場させても本質的に何も悪くない。平均的な小説家は重力の法則を運用しているなんて説明する必要はないし、都合のいい(悪い)ときにガソリン切れになった背景を説明しなくてもいいのだ。
それでも広く受け入れられるルールが無ければならない。登場人物たちは作者がうんざりしている窮状から、砂漠を突然走り出すような車を持つことで脱出することはできないのだ。同じように、もし登場人物たちが魔法を使おうとするなら、おおむねもっともらしいシステムにのっとってもらわないといけない。
ところが『ハリー・ポッター』シリーズでは、コストも制限もあまりに気まぐれすぎる。たとえば、守護霊の呪文(*2)はひどく難しい――だがそれも勇敢な生徒の一団をまとめあげて“権力と闘う”(*3)感動的なシーンを作者ローリングが望んだために経験の浅い15歳に教えられただけで呪文を唱えられるようになるまでの話だった。作者ローリングにこんな芸当ができる唯一の理由が、魔法の力をどう得るか徹底して不明にしているということ。アカデミーの研究所を認めるのは難く思えるのは、呪文が一語や二語で済むことだ。なにより、もしそれが決定因子になるならハーマイオニー・グレンジャーがハリー・ポッターより優秀な魔法使いのはずではないか。あるいは、もしも運動技能と同種のものだというのなら、どうして並べた机で教えられているのか? そして、なぜ魔法の実技のあとで生徒たちはへとへとになっていないのか?
(*2守護霊の呪文:原文"a patronus charm")
(*3“権力と闘う”:原文"Fight the Power"。Publec Enemyのヒット曲。参考:YouTube)
魔法に付随する機会費用の低さは実に信じがたい魔法使いたちの経済にまで波及している。なぜウィーズリー家は貧しいのか? なぜ魔法使いが? 必要なものは珍しい魔法の物体以外なら全て、家のエルフに命じたり魔法をかけたり、ピンチのときには夕飯や家といった物をつくったり家族を集めたりして手に入れられるというのに。それでもウィーズリー家は魔法使いどころか我々の基準からしても貧しい。一家は数語の呪文で簡単に得られるべき新しい洋服や教科書まで持っていないのだ。なぜ?
答えは多くのローリングの作品によれば次のようになりそうだ「彼女はきちんと考えていなかった」。物語の細部はローリンズの本の大きな魅力になっているし、私が第7巻を予約した理由にもなっている。ふくろう便、喋る肖像画、ウィーズリー家の双子の魔法の悪戯、など。しかし、作者はまったく大きな絵柄に注意を払っていないようで、だからそれぞれの細部が互いに悲惨な衝突をおこす。私が第7巻を予約したのと同じ理由で、作者のほうは脚本の穴を埋めるために登場人物に不可解な振る舞いをさせているのだ。
これは問題だ。もし魔法のコストがしっかりと決められていなかったら、私たちは勇気ある決断以外のどんな手段をハリー・ポッターが求めているか、いったいどう知ることができるというのか? 絶対に私たちはハリーの洞察力に頼れない。ハリーは最近の2巻分を『特攻大作戦』(*4)の脳損傷を追った避難者のように行動している。
(*4『特攻大作戦』:原文 the Dirty Dozen 。1967年の映画タイトル)
友人らが主張するには、私は子供の本に期待をしすぎているらしい。しかし、私はそれが正しいとは思わない。子供は優れた分類家で、だからこそ何度も同じ番組を見て何度も同じ本を読む。全ての細部を整然とした一枚絵に引き合わせようとする。「私は他の人にできないことができるんだ!」は大きなスリルだ。しかし、それは「私はこれがどう働くか知っているんだ」もまた同じ。『ハリー・ポッター』についてそうは言えない。作者ローリング自身が分かっていないようだからだ。仮にシステムであればどんなものでもいいというなら、それは少年ハーバート・スペンサーによるファンタジー世界ヴィクトリアナでも最も意地悪なものとなる。生まれつき分かれた才能の階級社会が存在し、私はこっそりその頂点にいる。ほとんどの人が行けないエリートの学校があって、私はそこへ行くことが許された。人々は実にきれいに善、悪、残忍に分類することができ、私たちは最後に主導権をにぎる善の側の人間だ。それは強力なファンタジー的な要素だし、だからこそ一般的に見られるのだ。
ところが最良の子供向けファンタジーはそういうものではない。魔法の世界に一貫性があって自分らの世界のようにリアルだ、存在するけど行き着くことがほとんどできないだけなんだ、という幻想をいだかせてくれるものなのだ。8歳や11歳のときでさえ私はハリーポッターの世界を信じることはできなかっただろう。ミセス・ローリングの気まぐれな大根作者ぐあい(*5)は明らか過ぎるぐらいに至るところで見られる――ルールを変更し、そして登場人物にマリオネットみたくタップダンスを踊らせ、脚本の大きな穴ぼこから気をそらせようとするのだ。
(*5大根作者ぐあい:原文"ham fist")
私は第7巻に魅了される心積もりをした。しかし、ああ、それがナルニアや中つ国(*6)のように私の想像力を夢中にさせるに足りる説得力をもっていればいいのに。
(*6中つ国:『指輪物語』の舞台)